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東京高等裁判所 昭和34年(行ナ)57号 判決 1963年2月28日

原告 ザ・ダウ・ケミカル・コンパニー

被告 特許庁長官

主文

特許庁が昭和三二年抗告審判第九六二号事件について昭和三四年五月一九日にした審決を取り消す。

訴訟費用は、被告の負担とする。

事実

第一請求の趣旨

主文同旨の判決を求める。

第二請求の原因

一  原告は、一九五四年六月二五日訴外アーサー・ダブリユー・スウエズイから同訴外人の発明にかかる「1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパン含有組成物およびその使用法」について、日本国において特許を受ける権利を譲り受け、その一九五三年一〇月七日米国における出願にもとづく優先権を主張して、昭和二九年七月二八日特許庁に対し特許出願をした(昭和二九年特許願第一五八五七号)ところ、昭和三一年一〇月一七日拒絶査定を受けたので、昭和三二年五月一八日同査定について抗告審判を請求し、昭和三二年抗告審判第九六二号事件として審理されたが、特許庁は、昭和三四年五月一九日右抗告審判の請求は成り立たない旨の審決をし、同審決の謄本は、同年六月九日原告に送達され、同審決に対する出訴期間は特許庁長官の職権により同年一一月九日まで延長された。

二  原告の出願にかかる本件発明(以下本願発明という。)の要旨は「不活性担体と緊密に混和せる1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンより成る土壌処理剤」にある。

三  本件審決の理由の要旨は、つぎのとおりである。すなわち、審決は、本願発明の要旨を前項と同様に認定したうえ、昭和二五年八月九日出願(一九四三年六月三〇日米国における出願にもとづき優先権主張)、昭和二七年一一月二一日出願公告にかかる昭和二七年特許出願公告第四八九六号公報(甲第二号証、以下引用例という。)を引用し、引用例には「分子内に3個ないし4個の炭素原子を含む飽和、不飽和多ハロゲン化炭化水素からなる混合物を含むことを特徴とする殺虫剤に関して記載されている。そこで、本願のものと該公報に記載の公知事実とを比較すると、前者の1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンは後者の分子内に3個の炭素原子を含む飽和多ハロゲン化炭化水素の範疇に属する化合物であり、また該公報一頁右欄四―五行の記載からみてこのようなハロゲン化合物として塩素と臭素の両方を含むものが用いられることが明らかである以上、1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンはたとえ後者に例示されていないにせよ、当業者間において既知の化合物とみなすことは何らさしつかえない。また、抗告審判請求人(原告)は、該公報に記載の殺虫殺菌剤は多ハロゲン化炭化水素の混合物であるのに対して本願のものは不活性担体と1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンとの混和物である点ならびにその活性において相違すると主張しているが、この種の化合物自体ならびにこれを担体に担持させたものが殺虫殺菌性を有する土壌処理剤として使用されることは、該公報第一頁左欄一六―二五行の記載からみて察知することができるから、前記の相違点には本願のものの新規性を認められない。したがつて、本願の土壌処理剤は、その出願前に国内に頒布された前記引用刊行物に容易に実施することができる程度において記載されたものであるから、旧特許法(大正一〇年法律第九六号)第四条第二号の規定によつて同法第一条の新規な工業的発明と認めることができない。」というにある。

四  けれども、本件審決は、つぎの点において判断を誤つた違法があり取り消されるべきである。

(一)  審決は、本願発明の有効成分である1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンをもつて当業者間において既知の化合物であるとみなしているが、既知の化合物ではない。すなわち、

(a) 1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンが本願発明の優先権主張の日である昭和二八年一〇月七日以前において当業者に既知の化合物すなわち農薬として公知でなかつたことは、(1)横尾多美男著「土壌線虫」第五二六頁(甲第六号証の一ないし三)に「1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパン」が殺線虫剤として一九五六年(昭和三一年)頃から注目されて来たことが明記されていること、(2)昭和二八年五月二五日発行の上遠章著「農薬使用法」(甲第九号証の一ないし五)には、引用例記載の農薬が早くも「D―D」なる商品名で掲載されているのに、本願発明の農薬についてはまつたく記載がないことからしても明らかである。また、(3)本願発明にかかる有効化合物1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンの農薬としての効果は、一九五六年および一九五七年発行の米国雑誌「農業化学」(甲第七、八号証の各一、二)等において初めて発表されたということによつても、右有効化合物が本願発明の優先権主張の日以前において、農薬として、公知できなかつたというに十分である。

なお、審決において本願発明の有効化合物たる1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンが当業者に公知であつたというが、万一プロパンのハロゲン置換物である有機化合物そのものとして公知であつたという意味であるとすれば、右化合物はもちろん引用例記載の化合物も、それぞれの優先権主張の日よりはるか以前においてこれら化合物の存在、製造方法等はすでに公知であつたものである。したがつて、引用例記載の化合物も本願発明の化合物も、それぞれの出願当時において、農薬としての殺虫効果が知られていたかどうかが問題なのである。また、農薬において殺虫と殺菌とは別であつて、殺虫殺菌の作用のあるものも少数はあるが、殺菌剤のほとんどすべては殺虫剤ではない。

(b) 審決は、(1)1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンは引用例記載の三個の炭素原子を含む飽和多ハロゲン化炭化水素の範疇に入る化合物であり、(2)引用例の記載からみてそのうち塩素と臭素との両方を含むものが有効であることが明らかであるとの理由をもつて、本願発明の右化合物を当業者間に公知であるというに足りるとしている。けれどもこれらの理由づけは、つぎのとおり誤つている。

(1) (右(1)の点について)

引用例においては、その特許請求の範囲、発明の詳細な説明のいずれによつても、(イ)分子内に三個ないし四個の炭素原子を含む飽和多ハロゲン化炭化水素と(ロ)同様な炭素原子を含む不飽和多ハロゲン化炭化水素とから成る混合物が殺虫殺菌作用を有することを述べているだけで、そのいずれか一方すなわち(イ)または(ロ)が殺虫殺菌効果を有するとは、まつたく記載されていない。したがつて、本願発明の有効化合物がたとい右(イ)の範疇に入つているとしても、これにより何らその殺虫殺菌作用が教えられるものではない。引用例に示された殺虫剤は、右の(イ)および(ロ)の混合によつて初めて効果があり、前記(a)(2)の上遠章著「農薬使用法」第一八一頁三行目以下の「D―D」の記載をみても「ヂクロールプロパンとヂクロールプロピレンとの混合物である……」とされている。そのいずれか一方で効果があるなら、(イ)または(ロ)を含むと記載されるであろうし、特に引用例のような特許明細書の場合にはそうであろう。

(2) (右(2)の点について)

引用例は、右のとおり、飽和および不飽和両炭化水素の多ハロゲン化物の混合物を示すものである。したがつて、引用例の「ハロゲン化合物の混合物例えば塩素と臭素の両方を含むものが用いられた。」(甲第二号証第一頁右欄第四―六行目)の記載を読むにあたつても右の前提のもとに判断すべきである。

引用例中発明の詳細なる説明の項第八行目以下に「本発明による殺虫殺菌剤は分子内に三個または四個の炭素原子を含む炭化水素の不飽和および飽和の多ハロゲン化物、特によいのは塩化物よりなる混合物あるいはこれを担体に附加したものから作られた。これは土壌の燻蒸と消毒について非常に効果的でしかも廉価である。これらの混合物は多ハロゲン化プロペンとブテン特によいのは2ハロゲン化プロペンとブテンおよび多ハロゲン化プロパンとブタン例えば2―、3―、4―塩化プロパンとブタンとの混合物を含む。適当な不飽和化合物は1・3―デイクロロプロペン―1と1・2―デイクロロプロペン―1のごとき化合物を含む。使用されうる飽和化合物は1・2―デイクロロプロパン、テトラクロロプロパン、1・4―デイクロロブタン、1・2・3―トリクロロブタン等のごときものを含む。上記の塩化物の代りに相当する臭化物、沃化物、弗化物が用いられた。又あるいはハロゲン化合物の混合物例えば塩素と臭素の両方を含むものが用いられた。本発明の記述を簡潔にするため塩化物についてのみ説明することにする。」と記載されているところから明らかなように、引用例は、まず、塩化物のみの混合の場合が好ましいとして、その場合にいかなる塩化物が飽和化合物および不飽和化合物として使用されるかを述べ、ついで、それら塩化物同志の組合せのみならず、臭化物同志、沃化物同志あるいは弗化物同志でもよいことを述べて来ていることからすれば、当然、たとえば臭化物と塩化物との混合物でもよいのであるが、記述を簡単にするため塩化物同志の場合について説明するとしていると読解されるであろう。

問題の文言「ハロゲン化合物の混合物例えば塩素と臭素の両方を含むもの」は、「化合物の混合物」というからには、その前後の文章からみて、塩素の化合物と臭素の化合物との混合物と解され、「例えば塩素と臭素との両方のハロゲンを一分子中に含む化合物同志の混合物」とは、とうてい解されない。(具体的に例示すれば、引用例甲第二号証第一頁左欄末尾より六行目以下記載の1・3―ヂクロロプロペンと1・2―ヂクロロプロパンとの組合せから、それに相当する臭化物すなわち1・3―ヂブロモプロペンと1・2―ヂブロモプロパンの組合せでもよく、さらにそれら各組合せの成分の一つずつをとつて、1・3―ヂクロロプロペンと1・2―ヂブロモプロパンあるいは1・3―ヂブロモプロペンと1・2ヂクロロプロパンでもよいということを示していると解される。)もし、仮りに、飽和多ハロゲン化炭化水素という記載だけに拘泥し、本願発明に使用される化合物も全部意味するとすれば幾多の化合物が考えられようが、引用例全体の記載ことにそのうち審決引用の部分(甲第二号証公報第一頁右欄第四―六行目)からみて、幾百幾千もあるようなハロゲン化物全部を意味するとはとうてい考えられない。その意味するところは、同種のハロゲンを含む化合物(例えばハロゲンが塩素なら塩素だけを含むもの)というのを限度とする。

ところが、本願発明の有効化合物は、一つの化合物中に塩素と臭素とを同時に含むものであつて、決してハロゲン化合物の混合物ではない。

もし万一、引用例の前記文言が一つの分子中に塩素および臭素を含む化合物を教えるものとすれば、例えば、一九五三年一〇月七日出願の米国特許第二八七五一一八号(甲第五号証)のような1―クロロ―4―ヨードブタン、1―クロロ―3―ヨードプロパンすなわち三個ないし四個の炭素原子を有する飽和炭化水素の多ハロゲン化物の一種を含有する殺線虫剤が審査の厳重な米国で特許されるはずがないであろう。

したがつて、審決の掲げた右(1)(2)の点は、本願発明の有効化合物たる1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンが当業者間に既知の化合物であるとするに足りる根拠となしえない。

(二)  つぎに、審決が本願発明にかかる1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンと担体との混和物は引用例に容易に実施できる程度に記載されているから旧特許法第四条第二号にあたり同法第一条の新規な工業的発明を構成しないとする点について述べる。

引用例には、有効化合物に担体を混和させることが記載されているが、本願発明の化合物は示されてなく、また、上述のとおりこの化合物そのものが本願発明出願当時農薬として公知でないから、本願発明は、旧特許法第四条第二号にあたらず、新規性を欠くものではない。さらに、本願発明の有効化合物は、引用例に示されたような例えば1・3―ヂクロロプロペンと1・2―ヂクロロプロパンとの混合物に比し、また、それら各個の化合物単独の場合に比し、殺線虫効果が予測しえないほど大である(引用例からその効果を予想されるものでないことについて甲第四号証宣誓口述書)。すなわち1・3―ヂクロロプロペン、1・2―ヂクロロプロパンおよびその混合物ではまつたく線虫を殺せないという濃度でも、本願発明の1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンでは、ほとんど一〇〇パーセント殺すことができる。このような点からみても、引用例は、本願発明を暗示したものではないから、本願発明は新規な工業的発明性を有する。

よつて、請求の趣旨のとおりの判決を求める。

第三被告の答弁

一  「原告の請求を棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決を求める。

二  原告主張の請求原因第一ないし第三項の事実は認める。

同第四項の点は争う。

(一)  本件審決は、本願発明にかかる1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンがその出願当時公知の引用例記載の殺虫殺菌剤にかかる三個または四個の炭素原子を含む飽和炭化水素多ハロゲン化物の範疇に属することを根拠として、1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンが既知化合物であると判断している。したがつて、審決は、引用例記載の殺虫殺菌剤が飽和化合物と不飽和化合物との混合物かどうかについては、これを問題にしていない。

引用例中「又あるいはハロゲン化合物の混合物例えば塩素と臭素の両方を含むものが用いられた。」との審決引用の部分は、同所前後の記載からみれば、引用例記載の炭化水素多ハロゲン化物としてどのようなハロゲンを有する化合物を使用できるかを示す記載であることが明らかである。そして、右記載部分の直前の「上記の塩化物の代りに相当する臭化物、沃化物、弗化物が用いられた。」の記載が原告主張のように同種のハロゲンによるハロゲン化物について説明したものであるとすれば、前記の記載からみて当業者ならば異種のハロゲンを同一分子に有する場合を記載したものと解釈しまたは推考することが容易である。

なお、引用例には分子内に三個ないし四個の炭素原子を含む飽和および不飽和多ハロゲン化炭化水素として同一分子中に異なるハロゲンを含む多ハロゲン化炭化水素が除外されることは何ら記載されてなく、かえつて、右のとおり引用例では、塩化物、臭化物、沃化物等という表現が使用されているのであるから、「ハロゲン化合物の混合物例えば塩素と臭素の両方を含むものが用いられた。」との記載が原告主張のとおり塩化物と臭化物との混合物を指称するならば、右の「塩素」を塩化物、「臭素」を臭化物と表現したであろう。したがつて、この文言の意味は、ハロゲンとして塩素と臭素との両方を同一分子中に含むような混合ハロゲン化物が用いられたものと解すべきであり、ひいて、本願発明の1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンは既知のものといいうることが明らかである。

(二)  右のとおり、同一分子中に塩素と臭素の両者を含む化合物が三個または四個の炭素原子を含む飽和炭化水素多ハロゲン化物として使用しうることが考えられる場合、本願発明にかかる1・2―ヂブロモ―クロロプロパンが既知の化合物といいうることは、つぎのとおりである。すなわち、飽和炭化水素多ハロゲン化物として、多ハロゲン化プロパンが使用されることおよび多ハロゲン化プロパンのハロゲン置換数が三個であるトリハロゲン化プロパンが使用できることが、引用例(甲第二号証第一頁左欄第二三―二五行目)の記載から認められる。このトリハロゲン化プロパンにおけるハロゲンの置換位置について考えてみると、プロパンの構造式は、

CH3―CH2―CH3

(1)  (2)  (3) ((1)(2)(3)は置換位置を示す。)

であるから、置換位置は三個である。そして、置換が行われる場合各置換位置において一個のハロゲンが置換されるのがもつとも普通であるから、トリハロゲン化プロパンとしては、1・2・3―トリハロゲン化プロパンがもつとも普通の物質であることは明らかである。つぎに、この1・2・3―トリハロゲン化プロパンとしては、どのようなハロゲンで置換された物質が炭素原子数三の飽和炭化水素多ハロゲン化物に含まれるかについて考えると、前記のようにハロゲンとして塩素と臭素との両方が使用されるのであるから、ヂブロモ―クロロープロパン、ブロモ―ヂクロロ―プロパンがこれに該当するものとして示されうることは、当業者ならば、容易に知りうるところである。したがつて、1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンが炭素原子の数三ないし四の飽和炭化水素多ハロゲン化物としての幾百幾千の化合物から容易に選択されるものではないとする原告の主張は不当である。

(三)  1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンの殺線虫効果は、引用例から当業者において容易に知りうることである。すなわち、1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンも、引用例に記載の多ハロゲン化物の混合物も、同様に土壌処理剤とくに円虫(ネマトーダ)の抑制に有効なものであつて、引用例の記載においてこの混合物のうち特に有効なものとして多ハロゲン化プロパン(これは1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンを包含して総称するものである。)とブタンとの混合物が例示されている。一般に、塩素化合物は有毒であるので、引用例の発明において飽和ハロゲン化合物と不飽和ハロゲン化物とのいずれもが、その単独では殺虫(殺菌)性を有しないと解することはできず、むしろ、両者とも殺虫(殺菌)性を有し、これが相乗して効果を奏するものと考えるべきであり、一方、右のとおり多ハロゲン化プロパンが特に例示されている以上、これが単独で土壌処理剤として使用しうることは当業者に自明のことといえる。なお、以上のことは、引用例(甲第二号証)の記載により裏づけられる。すなわち、その第二頁左欄第三七行目以下の記載は各成分が殺虫的活性を有すること、同第一六―二〇行目の記載はC3混合物(多ハロゲン化プロパンを含む。)がネマトーダの抑制に有効であること、同第二一―二八行目の記載は飽和化合物が植物に対する害作用を抑制することを示し、したがつて、多ハロゲン化プロパンひいて1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンを土壌処理剤として単独で使用しうることを示しているものといえる。

審決に違法の点はなく、原告の本訴請求は失当である。

第四証拠<省略>

理由

一  特許庁における本件審査および審判手続の経緯、本願発明の要旨、本件審決の理由の要旨についての請求原因第一ないし第三項の事実は、すべて、当事者間に争がなく、また、審決掲記の引用例が昭和二五年八月九日出願、昭和二七年一一月二一日出願公告にかかるものであることは成立に争のない甲第二号証により明らかである。ところで、本件における争点は、結局、本願発明にかかる1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンが殺虫効果ある農薬として、その優先権主張による出願日前国内に頒布された引用例刊行物に容易に実施することをうべき程度に記載されているかどうかにある。

二  まず、引用例(甲第二号証)第一頁右欄第四―六行目「又あるいはハロゲン化合物の混合物例へば塩素と臭素の両方を含むものが用いられた。」との記載の解釈をめぐり争がある(原告は請求原因第四項の(一)(b)のとおり主張し、被告はこれをその答弁第二項の(一)のとおり争う。)ので、以下この点に関し順次判断を示して行く。

(一)  前示甲第二号証(引用例公報)によれば、(イ)引用例の発明の性質および目的の要領の項には「本発明は分子内に3個ないし4個の炭素原子を含む飽和および不飽和多ハロゲン化炭化水素からなる混合物を含む殺虫殺菌剤」にかかるものであり、その発明の詳細なる説明の項(第一頁左欄第一六―一九行目)には「本発明による殺虫殺菌剤は分子内に3個または4個の炭素原子を含む炭化水素の不飽和および飽和の多ハロゲン化物、特によいのは塩化物よりなる混合物」であると記載されており、(ロ)その特許請求の範囲は「分子内に3個ないし4個の炭素原子を含む飽和、不飽和多ハロゲン化炭化水素からなる混合物を含むことを特徴とする殺虫殺菌剤」にあることが明らかである。したがつて、この記載によれば、引用例の発明の混合物とは、炭素原子の数が3個または4個の多ハロゲン化炭化水素の飽和化合物と同様の多ハロゲン化炭化水素の不飽和化合物との混合物であると解される。

ところで、引用例公報中発明の詳細なる説明の項冒頭から前示争になつている文言部分に及んでこれをみると、右(イ)の点に関する記載に続いて、その第一頁左欄終から六行目以下に、右の不飽和化合物として適当なものとしては、1・3―ヂクロロプロペン―1と1・2―ヂクロロプロペン―1が、また、飽和化合物としては、1・2―ヂクロロプロパン、テトラクロロプロパン、1・4―ヂクロブタン、1・2・3―トリクロロブタンがそれぞれ示されている。すなわち、引用例公報においては、まず、炭素原子の数3個または4個の飽和および不飽和炭化水素の多ハロゲン化物として塩化物だけが例挙されており、これにつづいて、その第一頁右欄三行目以下に「上記の塩化物の代りに相当する臭化物、沃化物、弗化物が用いられた。」と記載されているから、この記載は、引用例の発明における多ハロゲン化物には、不飽和化合物の多ハロゲン化物としては1・3―ヂブロモプロペン、1・2―ヂブロモプロペン―1も、また、飽和化合物の多ハロゲン化物としては1・2―ヂブロモプロパン、1・4―ヂブロモブタン、1・2・3―トリブロモブタン等のごときものも、含まれる趣旨をあらわしているものと解され、なお、前示(イ)の点の後段ことに「特によいのは塩化物よりなる混合物」とあるところからしても、塩化物以外のハロゲン化物すなわちこれに相当する臭化物、沃化物、弗化物でも、引用例の発明でいうハロゲン化物の混合物として殺虫殺菌剤として有効であることを明らかにしているものと解される。

したがつて、引用例における「ハロゲン化物」あるいは「多ハロゲン化物」とは、塩化物、臭化物、沃化物または弗化物を意味するものであつて、同一分子中に置換されるハロゲンは、ただ一種類に限定されるものと解するのが相当であり、また、引用例公報第一頁右欄第四―六行目「又あるいはハロゲン化合物の混合物例へば塩素と臭素の両方を含むものが用いられた。」の記載中、「ハロゲン化合物」とはハロゲンとして塩素なら塩素だけを、あるいは臭素なら臭素だけをその分子の中にもつハロゲン化物、すなわち、塩化物あるいは臭化物を指すものと解すべく、また、この記載における「混合物」とは、例へば1・3―ヂクロロプロペンと1・2―ヂブロモプロパンとの混合物のように、ハロゲン化物として不飽和塩化物と飽和臭化物との混合物も用いられたとの趣旨と解すべきである。

もし、被告の主張するように、ここでいう例へば「塩素と臭素の両者を含むもの」を1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンのように、二種のハロゲンを同一分子中に含むものを指すとすれば、このようなものは「ハロゲン化合物の混合物」ではなく、単一物すなわち1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンだけのものであるから、「ハロゲン化合物の混合物」の例示となりえないことが明らかであり、矛盾した記載となる。

(二)  引用例公報中には他に右判断をくつがえすに足りる記載がないから、引用例は、多ハロゲン化物のうち同種のハロゲンの数個によつて置換された炭素原子の数3個または4個の飽和および不飽和炭化水素の混合物が殺虫殺菌剤として使用しうることを開示しているにとどまるものといわなければならない。

このことは、右引用例公報第二頁左欄第二一―二八行目の「必要濃度においてこの混合物は土壌の物理的性質に対し直接または間接に有害作用を及ぼすが植物に対しては比較的影響を及ぼさない。この高い毒性と植物に対する比較的無害な作用の組合はせは混合物中の飽和および不飽和化合物の組合はせによるものであつて後者は高い効果的毒性を前者は植物に対する害作用を抑制すると思われる。」との記載に徴し明らかなように、不飽和化合物が殺虫殺菌性を有するのに対し、飽和化合物は、この不飽和化合物の植物に対する害作用を抑制するところから、引用例の殺虫殺菌剤においては、両者の組合はせすなわち両者の混合物によつて所望の殺虫殺菌作用を有効に収めようとするものであると認められることによつて、さらに明らかである。

三  ところが、本願発明にかかる1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンは、飽和化合物であつて、プロパンの分子中における水素を塩素と臭素との二種類のハロゲンによつて置換した単一の化合物である。しかも、本願発明の土壌処理剤は、1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパン以外に不飽和化合物を含んでいないから、同じ土壌処理剤といつても、引用例に示された殺虫殺菌剤とはその物質を異にするものであることが、前示判断に徴して明らかである。なお、効果の点においても、成立について争のない甲第四号証、同第六号証の一ないし三、同第七、八号証の各一、二、同第九号証の一ないし五によれば、1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンは、引用例のものに比し同等あるいはそれ以上の殺虫効果があることが認められる。そして、このような構成と特別な効果とを有する1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンよりなる本願発明にかかる土壌処理剤が、その優先権主張による出願日(昭和二八年一〇月七日)前公然と実施されていたことを認めるに足りる証拠はなく、かえつて、甲第四号証を除く右甲各証によれば、1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンが殺虫剤として注目されて来たのは一九五六年(昭和三一年)頃のことであることが認められる。

なお、被告において種々主張するところは、以上に直接判断されたもののほか、前示認定にそわないものであるから、採用できない。

四  右のとおりである以上、本願発明にかかる1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンと引用例において殺虫殺菌剤として使用する多ハロゲン化炭化水素とは、一般有機化合物としてみれば、同じく多ハロゲン化炭化水素の範疇に入るとしても、引用例のものはただ一種のハロゲンによつて置換された飽和および不飽和炭化水素の混合物であるのに対し、本願発明の1・2―ヂブロモ―3―クロロプロパンは同一分子中においてその水素が塩素および臭素の二種のハロゲンによつて置換されたものであつて、たがいに相異なるものということができ、しかも、化学的に同一系統に属する化合物は化学反応においては同様な化学反応を示すことを容易に推測しうるとしても、生化学的には同様な反応をするとは容易に推測できないことが明らかであることを考え合わせると、本願発明をたやすく引用例の公報の記載をもつて当業者の容易に実施しうべき程度のものとし旧特許法第四条第二号により同法第一条の特許要件を具備しないものとした本件審決は、審理不尽、理由不備のそしりを免れず、したがつて、違法として取り消されるべきものであり、原告の本訴請求は理由があるから、これを認容し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条を適用し、よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 関根小郷 入山実 荒木秀一)

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